引き続き宜しくお願いいたします(^^)
2024年01月27日
2023年10月20日
認知とか言う堅苦しい言葉ではなくて
子どもと五目並べをやった
本当に考えて置いているのかと問い詰めてしまうくらい適当に置いているように思える時がある。
もちろん、最初から要領良くできる子はまれであろう。
もちろん、自分も親や友達と数をこなして成長したと思っている。
何が言いたいのかと言うと
判断の基準や条件を自分で考えて決断実行の訓練をする機会があるのかどうかに疑問を持った。
時代のせいにすると言い訳じみている
その時代のおかげで暮らしも楽になっているのは確かである。
しかし、何かと楽に出来るような環境が用意されている。楽と言うのは考えなくても良いと言うことで、危険なことも危険なことと感じさせないくらいマネージメントされている。
危険なことも世間や色々な目があるから、ほとんどの人は「やらない・動かない」を選ぶ。
動かなければリスクもない。
僕が良く例に出すのは道路を1人で渡ることが出来るのかどうか。
道路を渡るのに、渡れると思う条件があると思っている。
@青信号なら渡れる。(青でも間違いで車が来ることもあると言う「かもしれない」がアラートな予測と準備)
A赤信号でも車が無ければ渡れる。
B赤信号で車が走っていても、1つ前の信号が赤で両車線とも止まっていれば渡れる。
このように少しづつ状況を複雑にしていき、渡れるのかどうかを問うことがサッカーにおいては特に大事なのではないかと思っている。
考えることが面倒な人は動かないと同じで青信号でしか渡らないと決める。
それは人として、社会人としては良いかもしれないが、その判断決断は人が用意した条件である。
青信号でも車が来てしまうこともある。その来てしまう可能性があるのかどうかも状況判断なのかなと。
その判断をしないと外に言い訳や原因を求めて自分の判断の成長が全くないように思えてしまう。
手っ取り早く判断の練習はゲームである。
五目並べや詰め将棋は段々と複雑になり、勝つための条件を自分で見つけなくてはならない。
この回数を増やすと同じようなパターンが見えたり、応用して解決したり出来るようになる。
サッカーも同じでゴールを取るためにどうなっていたいのかは世界共通な気がしている。
そうなるために何を考えるのか。何を見られると良いのか。
そんなことを小学生からアプローチがないと、結局何をしたら僕は良いのですか?と聞いてくる選手になってしまう。
ご家庭も含めて判断決断実行の場を!
2023年09月22日
サッカー以外をやる時間がない
先日子どもと卓球をしに市民体育館に行った。
市内の子どもは80円で2時間遊べる。
子どもはやったことがなかったのでラリーが続かない。
持ち方から始めたが持ち方を優先してラケットの向きが悪い。
ボールを相手コートに返す為にはどの角度で面を当てると良いのかと問い続けたが中々上手く返せない。
センスと言ってしまえばそれまでなのだが、やはり色々な遊びをやってこなかったことによる経験の無さなのかなと感じた。
ボールの速度や向かってくる高さによって動いてラケットに当てる空間認知も訓練が必要と感じた。
しかし、これを本人達が悔しくて出来るようになりたい!上手くいくと楽しい!とまでに気持ちを持つことが1番の上達になる。
いつも自分がどうなりたいのか?の問い。笑
途中つまらないとなっていて強制的にやらせた…笑
根気よく付き合って少しラリーが続くようになった。本人達も楽しかったと言うが、卓球行こうよ!とは誘われない。むしろ、卓球行こうって誘うと「え〜」と。
学校や学童、近くの公民館などに気軽に出来る環境があればまた違うのかなと思ってしまう。
帰っても家から出なくても友達とオンラインで遊べたりする時代だからこそ、そのキッカケを反強制的にも用意した方が良いのかなと思っている。
遊びで獲得していた経験や能力値を今やかけっこ教室や体操教室、何とか教室で習い事として行う。
これも保護者からすると助かるサービスではあるが、もっと気軽に子供だけで遊べる環境が大事かなとつくづく思う。
大人の目が無い中で子供だけでルールづくりしたり、楽しめるように皆んなで考えることが無駄でも良いのかなと思っている。
そんな時間が取れないように感じている…。
帰って宿題、塾、習い事などなど…。
学校に戻れば誰かしらが遊んでいて、学年を越えて皆んなで遊んでるのを見るのはレアである。
もしかしたら僕が見えていないだけかもしれないが、もっともっと子供だけで遊べる環境や保護者の後押しも造っていきたいなと思っている。
結局、大人が用意してるのかよ!ってね笑
2023年07月27日
子どもも冒険がしたい
子どもと近くの川に行ったときに思ったことである。
川での事故が多くなっていると世の中が注意喚起している。
その情報をどう捉えるかだ。
最初は浅瀬で遊んでいた子供たちは自然と色々なところに移動して遊んでいる。
少し深くなっているところにもやはり向かう。
現況に慣れてきたときに少しスリルを感じたいのか危ないと分かっている所に足を踏み入れる。
現況に慣れてきたときに少しスリルを感じたいのか危ないと分かっている所に足を踏み入れる。
下の子は1年生で泳ぎは全く出来ない。
兄につられて少し深くなるところに行くが、自分でこれ以上は危険と感じたのか辞める。
兄が下調べして足が届くことを確認したら少しづつ向かった。
(もちろん自分が前もって深さは調べている)
知らないことは誰もが怖いと思うが、その知らない世界にファンタジーを感じ冒険したくなるのが人間の性分なのではないだろうか。
性格など人それぞれなのだが、世の中が用意したルールや制度に乗っかり続けることだけが幸せを見出せるのか。
ルール、ルールと何ごともにもルールで縛られている人はいざとなった時に動けるのか?
ルールがないと危ないのかどうかを決められず動けないと言うことが起きやしないだろうか。
子どもだけではない、大人も冒険は大好きなはずだ。
その冒険の始まりは自分から色々と行動し危険を冒していくことではないだろうか。
僕ら大人(先に少し生まれた人)がそれをどこまで見守れるのかが彼らの危険を感じる神経系を発達させることではないだろうか。
この危険を感じる力はサッカーにおいても必要なアアラートと言われることである。
サッカーは全て相手、仲間の状況で行動が決まる。
次に何が起こりそうなのか、何をしたら良いのか、それをイメージして行動に移す。
その行動も人によって解決策が違う。
原理原則の中で、自分の能力と相手の能力を分析して対応の仕方を決める。
その状況を自分で決めて行うことが中々な出来ず、難しい選手がいる。
それは小さい時から自分で決断するシーンが少なかったのではないかと推測してしまう。
それは小さい時から自分で決断するシーンが少なかったのではないかと推測してしまう。
前文の様に何かルールや決め事、大人の指示がないと動けない選手かなと。
結局は毎度のことだが、
どんな人になってもらいたいのか?
をこちらがどう持つのか。
子どもの携わり方にプロセスを持ちたいとつくづく思った。
2023年06月17日
人間も自然の一部
自然の摂理に逆らうように無理をすると壊れたり本質から外れる。
美味しい野菜は味が違う。
今の殆どの野菜は野菜っぽいだけで野菜自体の味が薄くなっている。
だから、ドレッシング、マヨネーズなど味付けが必要で、美味しいと感じるのはドレッシングの味だったりもする。
では、なぜそのような「っポイ」野菜が多く流通するようになったかと言うと貨幣経済による資本主義の経営であるから、会社は成長を早くしなくてはならない。会社の成長は売上を上げること。売上を上げるのには量を作らないといけない。しかも、早く多く作れると単価も下がり多くが流通し売上が上がる。
つまり、野菜に無理強いさせて早く大きく売れるキレイな形に、しかも大量になってもらわないとならない。
野菜が自分から芽をだして、自分のスピードで大きくなるのを待つととても時間がかかる。
だから、肥料を与え農薬や環境(ビニールハウス)を整え無理やり成長させる。
時間は短縮され、売りやすく皆んな同じサイズ感になる。
このような経済成長によって確かに衣食住の物質的なことが豊かになった。ありがたい。
しかし、スーパーでおつとめ品など値引きしていて古くなっている野菜を見ると物質的裕福が大事なものを見えなくさせているように感じる。
見た目、新鮮さ、欲しい時にある物が人々の幸せと言う価値感。人間が主体の時間軸で動いている世界。
ここに違和感を覚えなくなっている、
そもそも人間も自然なのだと。
自然の摂理に従い、その時にある物をある量で生きられる生活をすることが自然である。
理想論かもしれないが考えることは自由である。
そうなったらどんな世界が待っているだろうか?
幸せの形が違ってくるのかもしれない。
さてさて、では人間は?
人間の成長はどう見たら幸せなのか?
生まれた赤ちゃんは、いついつまでに、こうなってないないといけないと言うような人間になりたがっているのかなぁ…。
全てではないが、そんな理想論を掲げたサッカーチームでありたい。そんなチームがさいたま市西区指扇にある。どんな子供もちゃんと味がそれぞれにある。