我が子が通う学校機関が小学校と中学校を一緒に考える一貫性を取り入れると決めた。
理由は中学校に上がった時に環境の変化による子どもの不登校を減らすためである。
6年生までは通えていた学校が中学1年生になると行けなくなる子が増えているとのこと。
なるほど。
また、ある小学校は授業の間の遊ぶ時間を無くした。それも余計なトラブルを回避するのも含まれているとのこと。
なるほど。
指導の現場でも何かあると保護者とのやり取りが多く、保護者が謝る。ん〜〜(^_^;)
毎度、言っていることになってしまうのだが、
子どもに、または相手にでも、
「どうなってもらいたいのか?」
を一番に考えなくてはならないと思っている。
問題に巻き込まれないように生きてもらいたいのか、問題を解決出来るように生きてもらいたいのか。
多様性とあちこちで言われる世の中になり、
その多様性と、どのように共同生活していくのかを練習していく場が学校教育なのでは?と私は思ってしまう。
自分との価値観に合わない子を排除して、パワーある人に従い、気を遣って、問題を起こさないように生活して、本当に自分が大事にしたい価値観も自分で決められず、他人の目(問題にならない)を気にして自分と言う価値観を形成していく。本当にそれで良いのか?
自分の意見を持てと言う教育が、自分の意見を強く持つ子を問題児扱いする。過去にも偉大なるリーダーはマイノリティである。
マスク着用の定義(厚生労働省)が変わってもマスクを外せない世の中。自分で判断することを奪う世の中。その判断、実行を認めず批判の多い世の中。
何が大事かを問うことより、多数派と違うことをすることが問題になる。だから、多数派に従う的な思考が強いのではと思ってしまう。
どの親も、我が子には何があっても自分で解決できる強い人間になってもらいたいのではないだろうか?
強い人間の定義もまた人それぞれだが、今あなたが差し伸ばしてる手助けは子どもを自分で思う強い人間にさせる手助けなのか?と問い続けているだろうか。
小学生や中学生の問題と言われることは、社会に出た時の問題と比べたらどれほどの問題なのか?大した問題では無いと思う。
小さい時から問題に対してどう向き合っていくのかと親子で考えることが良いのではないだろうか。
家族同士でも完全に同じ価値観にならない。他者と対話して、自分と考えが違うことを知り、認め、そして自分はどう考えを持つのかをまとめていくのが成長だと私は思っている。
問題…?トラブル…?
何を問題と捉えるのか?から考えたい。