子どもと近くの川に行ったときに思ったことである。
川での事故が多くなっていると世の中が注意喚起している。
その情報をどう捉えるかだ。
最初は浅瀬で遊んでいた子供たちは自然と色々なところに移動して遊んでいる。
少し深くなっているところにもやはり向かう。
現況に慣れてきたときに少しスリルを感じたいのか危ないと分かっている所に足を踏み入れる。
現況に慣れてきたときに少しスリルを感じたいのか危ないと分かっている所に足を踏み入れる。
下の子は1年生で泳ぎは全く出来ない。
兄につられて少し深くなるところに行くが、自分でこれ以上は危険と感じたのか辞める。
兄が下調べして足が届くことを確認したら少しづつ向かった。
(もちろん自分が前もって深さは調べている)
知らないことは誰もが怖いと思うが、その知らない世界にファンタジーを感じ冒険したくなるのが人間の性分なのではないだろうか。
性格など人それぞれなのだが、世の中が用意したルールや制度に乗っかり続けることだけが幸せを見出せるのか。
ルール、ルールと何ごともにもルールで縛られている人はいざとなった時に動けるのか?
ルールがないと危ないのかどうかを決められず動けないと言うことが起きやしないだろうか。
子どもだけではない、大人も冒険は大好きなはずだ。
その冒険の始まりは自分から色々と行動し危険を冒していくことではないだろうか。
僕ら大人(先に少し生まれた人)がそれをどこまで見守れるのかが彼らの危険を感じる神経系を発達させることではないだろうか。
この危険を感じる力はサッカーにおいても必要なアアラートと言われることである。
サッカーは全て相手、仲間の状況で行動が決まる。
次に何が起こりそうなのか、何をしたら良いのか、それをイメージして行動に移す。
その行動も人によって解決策が違う。
原理原則の中で、自分の能力と相手の能力を分析して対応の仕方を決める。
その状況を自分で決めて行うことが中々な出来ず、難しい選手がいる。
それは小さい時から自分で決断するシーンが少なかったのではないかと推測してしまう。
それは小さい時から自分で決断するシーンが少なかったのではないかと推測してしまう。
前文の様に何かルールや決め事、大人の指示がないと動けない選手かなと。
結局は毎度のことだが、
どんな人になってもらいたいのか?
をこちらがどう持つのか。
子どもの携わり方にプロセスを持ちたいとつくづく思った。