2021年11月04日

チャレンジとは一か八かではない

「ナイスチャレンジ!」
「チャレンジしろ!」
よく聞く言葉だ。
指導者はその選手のチャレンジはどうだったのかを見極めることが大事である。
選手が何を見てプレーを決めたのかを見ないといけない。

一見上手くいったプレーも選手は最初からプレーを決めていて実行した結果上手くいった場合がある。
逆に同じようなプレーもミスをする時がある。

他に選択肢が無かったか?と問えば理解はして、次はその選択肢を選ぶ。
その選択肢を選んだ結果も上手くいった時とミスの時がある。
その比率が低い選手は選択肢はあるが判断する基準がないと思われる。

何を見て判断するのか。

よく「判断しろ!」と言うワードが飛び交うが判断は選ぶものがあることと、選ぶ基準がないと判断は出来ない。
大きく言えば原理原則である。
ただ、サッカーの原理原則と説いてもゴールを目指すことしか子供からは出ない。
なのでゴールを目指すのに何が良い選択だったのかを理解させることが大事になる。

どの判断が有効なのか?

そんなことを強く求めるとサッカーには正解があるような感じさえする。
サッカーに正解はない
よくそんな話がでる中である程度の正解はあるのかとも私は思っている。
正解があるから子供もテストみたいで硬くなるし、自信がない子もでてくる。
勉強みたいにしたくはないが最低限は必要。
その加減が難しい。

指導者は子供が正解を見つける過程をサポートしたい。
どこでつまづいているのか。
何が上手くいってないのか。

チャレンジしろ!の言葉を深く捉えたい。

posted by メガネコーチ at 11:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年10月11日

バックナンバー2014年10月「評価」

改めて見返す気持ちは今も変わらず。
この思いもち続けたい。

評価:価値を判じ定めること

人に言われたことができる、言われたことを行うと褒められるし、評価を得る。
できなかったことができるようになると褒められるし、評価を得る。

サッカーで「コーチに褒められた!」は果たして評価なのか・・・
確かに、褒められれば誰もが素直に嬉しい。
ただ、本当は褒められた理由が分かることが嬉しいのではないか。
褒められたことより、褒められた理由を理解することが一番大事なのではないか。

サッカーとは、相手より1点でも多く得点をし勝敗を決めるスポーツである。
パスを100本回しても、ドリブルで3人抜けても、ミスを何回しても勝敗には関係ない。
コーチに褒められても、褒められなくても、怒られても、怒られなくても、
サッカーにおいてはあまり関係ない。

サッカー。自分のゴールを守りながら、ボールを奪い、相手のゴールを目指すと言う目的から考えて自分が行動、プレーを選択し、それがどうだったか分析する。
コーチの言っていることが一つの答えではない。一つの正解ではない。
自分がプレーし選択したことがどうだったのか。

コーチが褒めたのなら、なぜ褒められたのか分からないと意味がない。
コーチが怒っているなら、なぜ怒っているのか分からないと意味がない。
褒められた=やった!!   怒られた(注意された)=ダメだ・・・
こんな考えならサッカーをやめた方が良い。

同じ状況がなかなか無いサッカーで周りの状況において判断しなくてはならない。
こうだから、こうと言うような正解、答えはサッカーにない。
結果、失敗だった、得点できなかった、負けた。
そこで考えるのである。
コーチに褒められたことをやったのに負けた。
これでは意味がない。サッカーが好きなのはサッカーしたいから。勝ちたいから。
褒められることが目的ならサッカーで無い方が良い。

サッカーは生き物だ。
こちらもどうなるかなど分からない。
分からないから面白い。
分からないものを可能性を高め、少しづつ分かる(勝てる)ようになったら面白い。

勝っていても考える。
褒められても考える。
より勝てる可能性を上げる方法はないだろうかと。
負けたくなかったら練習するはずだ。
技術がないなら練習するはずだ。

コーチに言われたから練習する・・・
努力を認めてもらいたい・・・
努力が評価だ・・・
誰の為にやっているのだ。
自分の為にやってくれ。自分の為に生きてくれ。

そこで、試合に出る、出ないも大事になるが、出れない理由を考えろ。
出れた理由を突き詰めろ。
出れないからダメじゃない。
まだまだ勝ちに向けての理解が質(技術)が低いのだと思えばよい。
出ている奴も常に勝ちにむけて考えるのだから
途中から出る。他の奴よりできることが少ない。
それで構わない。その中でお前は何ができるのか。
お前の何が勝ちに向けた行動なのか本気で考えられればそれはどんな選手でも戦力だ。
その機会を与えてもらえないのなら、まだまだこちらが思っている以上に考え方が低いはず。

己にベクトルを向け、己を受け入れろ・・・
と、日々願い思っている。
posted by メガネコーチ at 22:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年07月13日

外的要因も大事

情報を処理する力より、情報を編集する力の方が今後の世の中に必要とされてくる。
コンピューターの処理能力の凄さより、人間からアイディアが生まれる方がプレー側も見る側も楽しい。

ただ、情報を編集するにも、元々の情報の量が少ないと編集にも時間がかかるのと、編集の限界というか幅が決まるのではないかと思ってきた。
アイディアが出るにも素の何かから生まれることが多い。

まず自分が何がしたいのかと言う意志(内的要因)を強く要求もしてきたが、情報の量が少ない頭に待っていても中々出てこない。
ましてや、サッカーは相手がいることなので、自分の思考を待ってくれない。

そこで、外的要因により情報の量を詰め込み、処理する速さを強制的に求めることにより、身体に否応なしに対応させる。
そうすれば集中力が増し、困った時に臨機応変に対応出来る様になるのではないかと思ってきた。

しかし、難しいのはこの方法で詰め込んでいくと勉強と同じように楽しめず、苦しいものになってしまう可能性がある。
だから大事なのは、サッカーで言うならばその先にある楽しい絵、その情報を獲得するとこんな事が出来ると言うイメージを持たせられるかが鍵なのかもしれない。

誰しも知らないことを知ることは楽しいが、興味がないことは耳から聞こえもしない。

海外と比べるのは良くないが、当たり前にサッカーの試合が放送され、触れる機会が多い。
その為か、大人も子供もサッカーはこう言うスポーツと認識されている。

11人で1つのボールをゴールに入れるのに90分も動き続けて、ボールに触る時間は1分もない。
ほとんどボールを触っていない時間を過ごすスポーツを楽しめているのか?

そんな原点にも問いたくなるが、我々はそのスポーツが楽しくてたまらない。
その楽しいを伝えたい。
いや、伝えることではなく、感じてもらいたい。
サッカーは楽しいのだから。
posted by メガネコーチ at 03:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月25日

本質

車を運転している時に前の車が右折をする。そこは抜け道なのか良く右折する車が多い。その車は中央線側によるがはみ出さずウィンカーを出して対向車が過ぎるのを待つ。

その車の後続車は続々と貯まり軽い渋滞が起こる。

対向車の方にも譲る心意気も要求したいが、自分は前の車に言いたかったのが、もう少し右に寄って、中央線を超えて真ん中辺りで待ってもらえたら、自分は左側を抜けて通れたと。

その左側を通させる幅を考えて右折待ちをする運転手はサッカー上手いと思ってしまう。

状況を認知し、どうなる事がベストかを考えた行動である。
自分のことだけでなく、今後のこと、周りの状況を踏まえてベストを取ろうと考えている。

そんなことがサッカーにも通づると思っている。

サッカーは自分が楽しむことはあっても良いが、自分だけでは本質が違う。チームの勝ちが全員の目的である。
自分がやりたいプレーも目的から外れてはいないと思うが周りを活かすプレーも目的を達成する1つである。

自分の行動がより良いメリットを出せるように普段から周りを見て行動を取る訓練をすると人生追求するところは無限にあるように思う。

どうなる事がベストかを常に考えたい。
なーんて考えてるとウザいですかね…ルールを守ることも本質と言う見方もある。
いや、ルールは目的に向かうものを守るもの。
目的が合っていれば使いよう。
posted by メガネコーチ at 00:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月27日

なぜ生きているのか

哲学のような問いになるが、究極はその問いに対して考えて欲しい。
人間として生まれ、必ず死が待っている中でなぜサッカーをしているのか。
生きるため。
生きるためと言ってもどう生きるのか。
プロのサッカー選手になる確率は東大に入るより難しく。
プロになっても大成するのはまたごく僅かな世界だと知りつつなぜサッカーを選ぶのか。

サッカーは人を子供から大人にするから。
サッカーは集団スポーツだから、社会性が身につくから。
サッカーは青春、感動があるから。
理由はなんでも良い。
それを自分が選んだと言うことが1番大事である。

サッカーと言うスポーツはとても楽しい。
サッカーはボール1つで人を幸せにしてくれる。
ある刑務所の中でサッカーが囚人たちを変えたとも言われるくらい美しいスポーツである。

ただ、サッカーは残酷でもある。
チームが勝利を目指すために、苦しいこともやらなければならない。
チームのために走らないとならない。
チームで試合に出れるメンバーも限りがある。競争がある。

その現実を知り、そして自分はどうするのか。
何を選び、何をするのか。
チームの勝利のために何をするのか。
自分で考え判断し選択する。

サッカーをやるきっかけは友達や親が与えたかもしれない。
そこで続けてきた中で、早い段階で自分で選んでることを理解させた方がその子にとって良いと考える。
大人の価値観で負けず嫌いにならないとダメとか、チームやコーチの言うことを絶対に聞かないといけないとか。
何が正解なのか、何を自分が大事にしていることなのかも考えないで与えられた価値観を遂行する。
自分で選ぶことが出来る時が来た時に初めて気付く。
なんでサッカー選んだのか。
その時までに費やした浪費、時間は返ってこない。
努力しろと言われ何に向かって努力しているのかも深く考えないで努力した結果が青春なのか。

競技はまさに競争である。
その螺旋に乗るのも降りるのも自分が選ぶことだと思う。
もちろん、その見極めが難しいからカテゴリーがあって海外は毎年移籍が当たり前にある。
カテゴリーが下がったから競技から降りろと言っているわけではない。
まだ上のカテゴリーではどうなのかとなっただけ。
それを踏まえて自分はどうなりたいのかを考え行動する。

中田英寿の早期引退も最後の方はプロサッカー選手が楽しくなかったと言っている。
サッカーは好きだから続けるし、サッカーは楽しいと。
W杯を含めてプロでやるには簡単な覚悟では出来ないと言うことだ。

小さいうちから自分はどうなっていきたいのかを問い、自分で選んでいけば覚悟ある人間になると思っているし、なって欲しい。
周りに言い訳をするのではなく、自分と向き合って欲しい。
サッカーと言うスポーツは競技でも、生涯スポーツでも追求し甲斐がある。
出来ない悔しさ、できた喜び、負けた悔しさ、勝った喜びを自分で感じ、サッカーを選んで欲しい。

大量生産大量消費の時代に限界が見えて来て、地球資源の限りがある中で人間は何を選択していくのか。
資本主義社会の中、死んだら自分のものなど何一つ意味をなさない。
人は必ず死ぬ。その死が待っている中で何をするのか。
自分は何に幸せを感じるのか。
どう最後を迎えるのか。

自分も考え続けることが生きることなのかと思いつつある。
偉そうなことは言えないが、子供と言われる時から生きるの意味は問い続けた方が良いと思っている。
posted by メガネコーチ at 05:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする